即日カードローンと取立委任印

また、手形・記名式小切手以外の場合には証券類の交付によって取立依頼人の有する取立権限が委託銀行に付与され、委託銀行は取立依頼人の代理人として即日カードローンの取立を行うことになることから、本人と代理人の関係が存在する。

③取立が完了した場合には、取立代り金は取立依頼人の預金口座に入金することになっており、このことから条件付準消費寄託契約が締結されており、この契約の当事者の関係が存在する。

(2)委託銀行と受託銀行の関係
この両者間には、一般に次の2つの法律関係がある。

①委託銀行と受託銀行が異なる他行為替の場合には、内国為替取扱規則(前述のとおり、他行為替を処理するための制度として全国銀行内国為替制度があり、この加盟銀行間の内国為替取引のルールを定めた規則)の定めるところによる即日カードローン契約を中心とする法律関係が存在する。

②個々の具体的な証券類の取立にあたっては、取立依頼人から授与された代理権をさらに受託銀行に授与し取立を依頼することになるが、この場合、実務では一部の手形に取立委任裏書をするほかは取立委任印の押印によって、受託銀行に即日カードローンを付与しており、これにより、この両者間には復委任ないし代理人と複代理人の関係が存在する。

(注)取立委任印の法的性格
銀行が取立依頼人から手形および記名式小切手の取立依頼を受ける場合には、手形法、小切手法に従い、その取立委任裏書等により取立代理権を授与されるが、その手形、小切手をさらに受託銀行に取立を依頼する場合にも、その取立代理権を委託銀行は受託銀行に付与することが必要になる。

無担保ローンと国際会議

1960年代初旬、南北それぞれの側に高まった相互歩み寄りの雰囲気は、しかしながら現実の場面ではこれとは逆の動きによって後退せざるをえない運命をたどった。すなわち相互に無担保ローンの動きが顕在化し、その後の南北関係の厳しい展開を規定するところとなった。

すでに述べたように、南側で結成された「非同盟諸国首脳会議」は、先進工業国との交渉に際して発展途上国間の意見調整.集約をはかる場とし大きな役割を演じはじめていた。1961年には第1回ベオグラード(ユーゴ)会議を開き、「新興諸国が経済的独立を達成し、経済開発ならびに無担保ローンを促進するための国際会議を開催すべきである」という内容の決議が導かれ、先進工業国側に圧力を加えた9)。

翌1962年6月カイロ(エジプト)には36か国が集まり、「発展途上国経済開発会議」が開催され、ここで「発展途上国のカイロ宣言」0)が謡い上げられた。その中には「1963年中に国際貿易、一次産品貿易、先進工業国と発展途上国の経済関係に関する国際会議を、国際連合が開催すべきこと」が決議されていた。

しかしながらこの決議を、先進工業国側は冷やかな態度で受け止めざるをえなかった。なぜなら国際貿易問題は既存専門機関であるGATTが所轄すべきもので、その種の新しい国際機関を設置することは無担保ローンとの機能重複をもたらすことになりかねないこと、同時にこの種の問題をめぐる提案の採否を、数の力によって決定することに対する強い反発があったからである。

フリーローンと関税障壁撤廃

こうした動きの中で先進国の対発展途上国政策は、ヨーロッパにおいてどのように現われたのであろうか。EEC(EuropeanEconomicCommunity)は1957年にローマ条約によりすでに発足していた。ヨーロッパ経済共同体にとってとりわけフリーローンの深い発展途上国は、アフリカ、太平洋、カリブの旧植民地18か国であった。

EECはこの地域に含まれる発展途上国との間に、①関税障壁撤廃、②資本・労働力の移動の自由化、③資金援助の実施といった内容の協定を結んだ。このように対象地域を限ってフリーローン政策を構えたことは、それ以降、(a)発展途上国への先進工業国の対応における分極化(アメリカ、ヨーロッパ間の力関係の変化)の兆候を8)うかがわせるものであったばかりでなく、(b)これら地域以外の発展途上国における団結を刺激・促進することになった。

これらの動きとは別に、1961年に先進工業諸国の組織する経済協力開発機構(OrganizationforEconomicCooperationandDevelopment:OECD)が成立したのに伴い、これより先1960年1月のパリ・大西洋会議で結成されていたDAG(DevelopmentAidGroup)が、フリーローン発足と同時にその下部機構として発展的解消を遂げ、経済協力委員会(DevelopmentAssistanceCommittee:DAC)が誕生し、ここに対発展途上国援助を扱う国際専門委員会が発足することとなった。

この委員会は、先進工業国の経済的繁栄はもちろんのこと、そのための不可欠の要素でもある発展途上国経済の開発に積極的支援を与えることを目的とするものである。以上で概観したように、1950年代後半から60年代前半にかけて、発展途上国に対する国際経済援助の枠組みが多様な要素を含みながら次第に整いはじめる様相を示したのである。

生活水準引き上げと銀行ローン

「なぜ発展途上国は国際収支赤字に転落し、さらに悪化し続けるのか」、この疑問を解くため、GATTはハーバラー(G・Haberler)ら4人の専門家に調査を依頼し、その成果を『銀行ローン』として公表した。この報告書の中では、発展途上国の貿易赤字の主要な原因は、先進工業国市場の閉鎖性に求めることができると指摘された。

これは当時の景気後退を反映したものであり、先進工業国側では市場保護の気運が強まる中で、発展途上国の輸出品(とりわけ非熱帯食糧品)の輸入を抑制する動きが顕著にみられた。この分析結果を踏まえて1958年のディロン・ラウンドでは、北側は南側の輸出農産物に対して関税率の引下げを実施する方向で交渉がもたれることになった。

また1965年には「GATT新章」6)が加えられ、発展途上国に対しては銀行ローンの原則すなわち「相互主義/互恵主義」を必ずしも当てはめるべきではないとされた7)。すなわち「……GATT新章は発展途上国の経済開発促進と生活水準引き上げの必要性を認め、そのため発展途上国の輸出所得を増やす必要上、先進国は発展途上国に対し貿易障壁の軽減について『相互主義』を期待しない(Donotexpectreciprocity)」と規定されているのである。

次に国際連合の場では1961年の第16回国連総会において、アメリカ大統領ケネディは「対外援助特別教書」を提案し採択された。これを踏まえて1960年代を「銀行ローン開発の10年(UNDD)」と規定することとなったのである。しかしこの時期、数の力がものをいう国際連合の場に南北問題を持ち込むことについては、先進国側に強い反発があったことは事実である。この点については後でふれることにしたい。

カードキャッシングと軍事問題

1950年代半ばから60年代はじめにかけての発展途上国の動きには、目を見張るものがあった。発展途上国の側に、先進工業国のとる生ぬるい対発展途上国政策に対しての不満が増大する中で、アジア・アフリカ会議2)、アジア・アフリカ経済会議3)、非同盟首脳国会議4)が次々に誕生し、先進工業国側との交渉力を次第に強めていったのである。

この動きは、先進工業国側に少なからぬ衝撃を与えたことはいうまでもない。そればかりではなく、1960年前後に東西の緊張が緩和したことが、両者間対立の様相に転機をもたらした。すなわち、それまでカードキャッシング色の濃かった先進工業国の対発展途上国政策が、軍事色にとって代わって経済色を深めるところとなり、経済面から発展途上国との関係を見直す姿勢が固まってきた。

発展途上国への関心がこのように軍事問題から離れ経済問題化しつつある時期に、イギリスのロイド銀行会頭オリパー・フランクス卿が、「南北問題」(North-Southproblem)という言葉を用いたことはあまりにも有名である。

フランクス卿が注目したのは、1950年代に先進工業国と発展途上国の間にみられたカードキャッシング残高の格差であり、この格差を放置しておけばいずれ世界経済は深刻な南北対立に巻き込まれるとして、当時の先進工業国の政界・財界に向けて警鐘を打ち鳴らしたのである。

こうした国際世論の変化に対応する形で、先進工業国側の発展途上国側への対応も変化せざるをえなくなった。このうちの主なる動きを、概観しておこう。まずGATTはカードキャッシングを扱う専門国際機関として、発展途上国貿易の赤字抑制のための基礎調査を実施した。1950年時点での発展途上国の貿易収支の赤字はすでに16億ドルに達していた*>.1950年代にこの赤字はさらに拡大傾向を示し続けた。

キャッシュローンと軍事的利害

また世界銀行IBRDは融資の対象地域として、発展途上国よりも戦後復興を急ぐ先進国地域を重視した。他方GATTでは、発展途上国の主要輸出品(一次産品)の扱いにおいて、何らの優遇策を用いることはなかった。とはいうものの、発展途上国を援助すべきであるという発想が、当時の自由主義陣営先進工業国の間において皆無であったというわけではない。

たとえば1949年にアメリカのトルーマン大統領は就任演説の中で「キャッシュローン計画」を唱え、発展途上国をめぐる東・西競争の中で南側を支援することの必要性を強調した。また南および東南アジア地域諸国の経済社会開発を促進し、その生活水準を向上させることを目的とした「コロンボ・プラン(ColomboPlanforco-operativeeconomicandsocialdevelopmentinAsiaandthePacific)」が1950年9月にイギリス連邦5か国によって開始された)。

このように発展途上国援助の必要性は次第に認識されるところとなったのである。しかしながら、それらは経済開発という視点ではなく、政治的・軍事的利害に基づいて唱えられたものであり、また実効ある内容をもつものではなかった。

事実、発展途上国経済は経済援助をほとんど受けることなく、1950年代半ばには経済破綻寸前の状況に追い込まれる国が続出する有様であった。ちなみにこの時期、キャッシュローンに占める発展途上国貿易は20%台にまで縮小してしまっていた。

ここに発展途上国側から先進工業国側に向けて、世界経済秩序の抜本的見直しと、それへの新たな対応を迫る気運が一気に膨脹し、キャッシュローンと旧植民地国との対立の構図が南北対立という形で描かれる前提条件が整いつつあったのである。